こんにちは。Ryuです。今回は森下典子『日日是好日~お茶が教えてくれた15の幸せ』から学ぶこと第十四回。読めば、自分の成長の道を作っていこう、とやる気が湧くので是非読んで下さい。
さて、日日是好日シリーズもいよいよ終わりがみえてきた。何度も何度も読み返したこの本。本当に生き方を学べるので是非手に取ることを勧めます。絶対読んだ方がいい。人生レベルで。
教えない
何かを学ぼうと、身に付けようと、〇〇学校や〇〇スクール、文化教室などに通ったことがあるだろうか?そこでは先生(講師)はどんな風に教えてくれましたか?
おそらく、懇切丁寧に、言葉(や時には図なども用いて)で分かりやすく説明してくれたのではないだろうか?僕も講師として人前に立つ時、分かりやすく言葉で、図で、伝達したい知識を伝えている。
これが、一般的な、教えるー学ぶ、の構図であることに異論はないだろう。そこかしこでこうやって誰かがモノを教えている。単純な知識や方法(ハウツー)を教えるならこれでもいいかもしれない。
しかし、これまでの森下さんの深い深い学びは、決して先生から教えられたものではなかった。何度も読み返しているとそれがより分かるのだけれども、学びとったものは、森下さんが自分で気付いてきた。
この、”自分で気付いてきた” ということが決定的に大事なこと。
お茶の稽古の時、武田先生は、いつも具体的で細かいことに言及するだけ。森下さんが気付いてきたような心の気付きの話などこれっぽっちもしない。外側に見えるモノやコト、形にのみ口を出す。逆説的に感じるかもしれないが、これが自分で気付き、学びとっていく最良の方法なのだと、この章を読むと深く理解できる。
武田先生は、教えるために、教えないのだ。言葉には限界がある。
言葉の限界
言葉はとても便利な伝達のための道具だ。しかし、言葉はその構造ゆえに、伝達の限界もある。
例えば、下の単純な絵を、誰かに正確に伝えられるか?

これは、意外に難しい。見れば一瞬で理解でき、それなりに同じものが描けるだろう。しかし、これほどの簡単なものが、言葉ではうまく伝わらないこともある。
いわんや、人の気持ちなんて、正確には理解しきれない。言葉を尽くしに尽くせば、かなり近づけるだろうが、正確には理解できない。「悲しい」という言葉で表現された思いが、どれほどのもので、どんな風に感じているのか、想像はできるけれども、人生経験も物事の捉え方も違う相手と全く同じようには感じられない。
簡単に「あなたの気持ちは分かる」などと言う人を僕は信用できない。
僕たちは、伝えたいモノがあると、言葉を尽くす。けれど、言葉を尽くせば尽くすほど、言葉は上滑りし、伝えたいことが伝わらない、あるいは、その表層しか伝わらないことの、なんと多いことか。それでも言葉を尽くすのだけれども・・・。
言葉で伝えたいのだけれども、武田先生は伝えない。もう一度言うが、教えるために、教えないのだ。
例えば、「聴雨」で書いたような衝撃的な体験は、言葉では伝えきれない。「言えばきっと、言葉の空振りになるのがわかる。思いや感情に、言葉が追いつかないのだ」。森下さんの言葉だ。
先生は「言葉では言えないことを、無言で語っているのだ」。
自分で気付く
間違い探しをしたことのない方はいないだろう。なぞなぞをしたことのない方もいないだろう。
思い出してほしい。間違い探しやなぞなぞでは、自分で❝わかった!❞という時の方が喜びが大きかったはず。答えを教えてもらうよりも、確実に。
何かを学んでいる時、読む・聞くだけではなく、自分でノートに考えを書き出したりまとめようと試行錯誤している時に、ハッと❝そうか!こういうことだったのか!❞と腑に落ちた経験はないだろうか?
これも、間違い探しを自分で見つけたごとく、自分で気付く体験だ。
こういう❝あっ、そうだったのか!わかった!❞のようなハッと気づく体験を、心理学ではアハー体験(A-han experience)という。
アハー体験には情動が伴う。驚きや高揚感だ。そして、そういう情動を伴った体験は、記憶にも残りやすい。自分を変えるのは、成長させるのは、そうした強い情動を伴った気付きの経験だ。
「あ、そうか!」とわかった瞬間、それは、私の血や肉になった。
森下さんがうまく言い表している。こうして人は成長する。それは右肩上がりではなく、階段のようなものだ。しばらく大きな成長が見えない時期が続いた後、ぐっと一段ステージがあがる。その上がる瞬間には、アハー体験がある。
僕の経験で言えば、ゲシュタルト療法を受けていた時に、自分と向き合って、自分に触れ、しっかり感じ取ることで(ここまでは苦しい!)、「あ、そうか!そういうことだったのか!」と目から鱗が落ちたことがある。
それはセラピストが直接言葉で教えてくれたことではない。もちろん、質問したり感じてみることを勧めたりといったことはセッションのやりとりとしてあったが、そうした中で、自分で気付いたことが大きな衝撃であり、自分を変えるきっかけとなった。ゲシュタルト療法の言葉で言えば、図地反転という。世界の見え方が変わる経験だ。
教える側としては、もどかしいだろう。だが、深く分かってほしいと思えば思うほど、教えない方が教えられる。例えば、ゲシュタルト療法は「気付きに始まり、気付きに終わる」という。
「本当に教えていることは、目に見えるお手前の外にある」。そんなことももちろん教えずに、しかし、気付く時、発見する時がくるのを待ち、気付けるような環境を用意する。「あ、そうか!」の瞬間を、きっと、心待ちにして。
こういう風にみてみると、教えるということは「自分が満足するために、相手の発見の喜びを奪うこと」であると言える。
そうしながら、武田先生は、「私たちの内面が成長して、自分で気付き、発見するようになるのを、根気よくじっと待っている」。
成長するということ
わかる時がいつ訪れるのか? それは分からない。
ただ、お茶という物差しでは、時間の制限はない。成熟のスピードも違う。早ければいいということもない。「その人の時」を待っている。
お茶は人の❝人としての❞成長を目指す。お茶は他人と比べない。その人の成長の❝時❞を待ち、「昨日までの自分」と比べる。
相対評価ではなく、自分の過去と比べるまで。
誰かと比べると、そこに優劣が生まれ、競争が生まれやすい。健全な競い合いは楽しくもあるが、不毛な競争に成り下れば、高みへ登るのではなく、足の引っ張り合いになる。そんな組織や集団は枚挙に暇がないだろう。
自分を自分と比べながら、一歩一歩成長していく。
過去の自分と比べ、その歳月の過ごし方による自分の成長に気付きながら、一歩先ゆく未来の自分を追いかける。
歩みゆく道は、自分で気付き、自分なりの答えをつかみ取って、進んでいく。そうやって自分の方法で自分の成長の道を作る。それが学びであり、本当の意味での「勉強」なのだ。森下さんは次の言葉で締めくくる。
気付くこと。一生涯、自分の成長に気付き続けること。 「学び」とは、そうやって、自分を育てることなのだ。
これは、自分を自分の人生の主人公にする、ということに他ならない。自分の人生に責任を持つからこそ、自分に関心を持ち、学んで気付いて、自分を育てていく。一生涯、それは続いていく。
もちろん、受け身に学んでいくだけではない。大人として、プロとして、仕事を通して世の中に貢献する。誰かに何かを為す。そうした能動的な行為を通して、自らいろいろなことに気付き、考え、答えをつかみ、成長し、一回り大きくなった自分でより良い仕事を為す。
学びは積み重ねられながら、ずっと続いていく。世阿弥は「住することなきが花」といった。鈴木大拙は「人間の完成は未完成のうちにある」といった。それは常に努力が要請されてしんどい、という意味では必ずしもない。
5章で登場した老婦人の言葉を思い出してほしい
「お勉強って本当に楽しいわね」
学ぶこと、成長すること、それは人生を豊かにし、楽しくしてくれる。恥ずかしながら、勉強が本分であるはずの学生の頃は分からなかった感覚だ。だが、今なら「本当にそうですよね」と言える。
学んでいくことは、成長を実感することは、楽しい。新しい世界が見えてくる。
まとめ
いかがでしたか?
「学ぶ」ということの意味や意義や面白味が伝わったでしょうか?拙文から、少しでもつかみ取れるものがあったなら幸いです。
ところで、今、あなたは何を学んでいますか?学びたいですか?
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自分らしく生きる、自分自身でいることをテーマにブログを書いてます。
自分を押し殺し、他人の価値観や意見ばかり気にする ❝いい子ちゃん❞ だった過去。自分のことが大嫌いでした。
そんな自分をなんとかしたいと心理学を学びプロの心理士として仕事をするも、自分嫌いは克服できずにいました。
そこへ、30代でゲシュタルト療法を受け、人生が180°変わりました。
自分が好きになり、
自分の意見や考えを軸に行動できるようになり、
やりたいことややってみたいことにも素直に食指をのばせるようになりました。
本もたくさん読むようになり、さまざまな考え方を柔軟に取り入れられるようになりました。
同じように悩んだことがある方や、今現在自分の生き方に悩む方へ。
あなたらしく生きる、あなた自身でいるための手掛かりやきっかけがみつかりますように、と僕の経験や学びを発信しています。
誰もが自分らしく生きられる世の中にする。
Ryuについてさらに詳しくは自己紹介を読んでくださいね。(↓ボックスのRyuをクリックすると自己紹介ページへとびます)
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